にぎわいネット
トップ  >  魚崎散歩  >  歴史スポット

【第5回】灘の素麺(灘目素麺)
灘の素麺は江戸時代に大和の三輪素麺の製法が、この地に伝わり製せられたのが始まりとされている。魚崎町誌の工業の項に江戸時代の素麺のことが次のように書かれている。
魚崎・横屋の両村は、すでに寛政の頃(1789〜1800)から素麺の製法を始めていた。
記録によると、寛政9年(1797)魚崎村は素麺屋(一軒)弥次右衛門なる者は冥加銀4匁3歩を納めていた。
原料の小麦は夏季に遠く関東、九州地方及び播州から買い入れて、水車(粉挽車)で製粉するか、後には粉問屋から購入して冬に多く製造した。
原料の小麦と水車働の関係から、播州の農民は農閑期を利用して魚崎・横屋の素麺製造職人として働きに来た。
灘の素麺が飛躍的に生産を拡大したのは明治以降で、江戸時代から明治の初期にかけて製造業者が独自の商標を用いて独立生産をおこなっていたものを明治19年(1886)の摂州灘素麺営業組合を結成し、事務所を魚崎町に置いて、統一的な販路の確保と品質と技術改良を図ったことなどが、生産の拡大につながったと考えられている。


明治31年(1898)には商標の統一、製品に等級を設けるなど生産者個人の家庭内手工業から近代工業化を図り、灘素麺は生産量の拡大の成功、当地の特産物として知られるようになった。
明治28年(1895)には灘素麺を海外に広めるため、セントルイスで開催の万国博覧会への出品を計画したが、出品予定にないことを理由に一度は却下されたが農商務省との直接交渉で出品にこぎ着けた。しかし灘素麺の繁栄はここまでで、最盛期には100万貫以上の生産高を誇ったにもかかわらず、明治後期頃から減少しはじめ、大正後期には、ほとんど生産は消滅してしまった。
原因としては、季節的に偏たった作業で製造毎に従業員の不足を来たしたこと、十分な用地確保が困難になってきたことが挙げられている。また現在全国的に有名な播州素麺が灘に出稼ぎに来た農民によって、その製法が持ち帰られたと伝えられる。
(後に播州揖保の糸になる)

魚崎町誌より抜粋

第6回【旧魚崎町役場】

第4回【日本で二番目のゴルフ場】

第3回【魚崎八幡宮】

第2回【村界の碑】

第1回【雀の松原】
Last update
© nigiwai net, all rights reserved.